大昔にYouTubeにアップした動画が突然200万再生を超えたけどどうしようもない
タイトルの通りなんですが、どうしようもないんですよ…
順を追ってお話しましょう。
大昔にですねYouTubeにアップした動画がですね、なぜか少し前に急にアクセスされだして、なぜか200万再生を超えてしまいました。原因は完全に不明です。
これがYouTuberや、そうなりたい人なら歓喜モノだと思うんですが、マジでどうしようもないんですよ…
なぜかというと、まず動画がですね、ほんとになんもない動画なんですよ。数秒のほぼ虚無みたいないやつでして、、、なぜこれに人が来ているのかそもそもそこがマジでわからない。。。
んでもってですね、普通大量に再生されたのなら、やれ収益化だのなんだのという話になりそうなものなんですが、それもちょっとやりづらいんですわ。
まずその動画が虚無なのはそうなんですが、そもそもそのチャンネルというかもう私のただの個人アカウントですね、ここにアップした動画が2本だけなんです。んでもってそれがもう11年前のものなんですね。
11年前といいますと、なんとYouTubeの収益化プログラムが個人に開放すらされていないんですよ。つまり今の有象無象のYouTuberなんて生まれるどころか、未来的にその存在を検知すらできないレベルの時代。
で、なんでそんな時に私が動画をアップしていたかというと、記憶がおぼろげなんですが、当時、多分スマホからYouTubeに動画を上げられるようになったばかり、とかそんな感じだったと思うんです。
一応ガジェット好きで新しい物好きの私としては、おそらく当時「こんなことができるようになったんだ!おっしゃちょっとやってみよ」という技術的(?)興味で、しかも当時スマホもまだ始まったばかりの時代。スマホのカメラで動画を撮ってそれを世界に発信するということがかなり珍しいというか、新しかったんですね。
なのでとにかく目の前で撮影した動画をとりあえず上げてみよう!そんな感じだったと思うんです。
なので、その時に収益化とか人を集めるとかそんなことを微塵も考えてなかったわけです。YouTube自体日本でそこまでめっちゃ見られているという時代でもなかったですし。使われ方自体が今と違ったと思うんですよね。
自分としては、そこまでまだ流行ってもいない動画SNSに動画を上げてみた、位の感覚で、いわば誰も見てないmixiにポエム上げたくらいのものだったわけです。
ただ、なぜかはるかな時を経てその動画が今になって人がきてしまっておりまして…
で、話が少し戻りまして、じゃあいきなり人が来たからいっそ収益化しちゃう?みたいな下世話な話も出てきそうなものなんですが、今のYouTubeの仕組み上、なんでも収益化できるわけではないので、人集めたりもっと再生時間伸ばしたりしなければならないわけですね。
そこで問題となるのが、ただこの偶然に来たしかも凄く個人的なただの生活の一部のさらにその中でも割と意味がわからんシーンを映した動画があるだけのチャンネルをどないできるのか、という話なわけです。
いきなり再生されたからと、ただの生活の1シーンをアウトカメラで映した動画の次が11年後に自撮りで「はい、じゃあ今日はこの商品を紹介しちゃったりなんかしま〜す、っつってね!」みたいなノリでできてたらキモいでしょ?キモすぎるでしょ?ありえないでしょ…そして誰も見ないでしょ…
いや、本気でYouTuber目指してる人からすればタナボタみたいなもんで、そんなこと考えずに厚顔無恥に「どうも〜◯◯チャンネルです!」みたいに始めちゃうのかもしれないけど、自分には無理です…
「こいつ前の動画が跳ねたから、いきなりYouTuberみたいなことしはじめやがった…」とか思われるの辛すぎる…あと、そもそもそんなことしたくない…
自己啓発寄りのビジネスチャンスみたいな考え方なら利用しないテは無いんだろうけど、自分には無理ですわ…ここらへんが貧乏でいる自分の限界なのかもしれない…
というわけで、その動画は自分的にはマジでどうしようもないので放っておこうと思います。
なんか、なんもせずにお金に変えられる方法とかあったら教えてください。
俺の中のカンサイジン
自分は関西出身だ。
正確には生まれは東京だけど、ほぼ記憶のない4歳の時に大阪に引っ越し、小3で神戸に。高校卒業して東京に来るまで完全に関西で育ち、言葉は関西弁だし食も関西の味覚、土曜の昼は吉本新喜劇で体が形成されている。
ただし、関東の人前で関西弁を出さないことは容易だったりする。
これは両親が関西人ではないということが大きいのと(オカンはそもそも愛知出身で育ちは三河弁のはずなのだが一切それを出さない)、幼少期から夕食時に付いているテレビは常にNHKのニュースで標準語を聞く機会が多かったこと、さらに自分は高校卒業後は声優や役者をやりたいという目標があったため常に標準語での単語のイントネーションは正確に言えるようになっていた。
なので、実際に声優の養成所に入ってからイントネーションについて指摘されたことは無いし(よくあるアメ(雨と飴)、ハシ(箸と橋)なんかも全く問題なし)、関西の人間と喋っている時以外は露骨な関西弁がでないので、社会人いなってから関西人と思われてないことも多々ある。(ただし地元の人間としゃべると普通に関西弁になる)
なので、イントネーション以外に同じ物を指す名詞で地域によって違う言葉になるものも基本は間違わない、というより思考を挟まず自然に言葉の取捨選択ができるのだが、一つだけ関西の呼び名が口をついて出てしまうものがある。
「押しピン」である。
何故か、「画鋲」が自然に口から出ない…
今日も、家の中に貼ってある子供の絵を付け足す時に「画鋲使うの外れた時に怖いからやめておくか…」という文を言おうとしたが「画鋲」が自然にでてこずなんか口ごもっってしまった。
何故か「押しピン」といいそうになってしまう。
あれだけ完璧に言葉を使い分けられてきたのに「押しピン」だけはなぜか無理なのだ…頭の中で「あぁコレ言っちゃったら伝わらなくて変な空気になってしまう…」と一瞬で思考がかすめるのだが、それでも正確なものがでてこない…なので結局何言ってるかよくわからん「コレ」とか「アレ」とかでふにゃふにゃした文を喋ってしまう…辛い…
ちなみに、関西では基本全部「押しピン」だと思うのだが、実は自分の中で細かくは「画鋲」は金色の頭が平べったい全身金属のやつで、「押しピン」は金属の針にプラスチックの透明や色付きのなんか円筒に輪が付いたみたいなやつ、という思い込みがあるのだが、この気持わかる人いるだろうか…知らんか、そうか…
子供ができて初めて直面したゲームアプリの問題
さて、iPhoneが日本に登場し、App Store黎明期からアプリ業界を見てきた自分ですが、いざ自分の子供がスマホを触るタイミングになって初めて見えてきたものがある。というか今まさに一つの壁にぶち当たりました。
それが、アニメなど子供向けIPだけどソシャゲの体をとっているアプリをどう遊ばせてあげたらいいか。
アンパンマンとかは結構厳し目で、広告モデルは危ないからと有料アプリorアプリ無料で課金でフル機能といった感じで広告無しの場合が多く、一度買ってしまえば後は子供に渡して遊ぶ時は自由でOKなパターンが多いのだけど、IPによってはそういかないのもある。
そこで問題は広告モデルとそれがOKなIP。広告は大人ならタップしなければ別にいいわけだけど、子供に関してはそこら辺の仕組みがまだ理解できてなかったり、やっぱりズルい広告には騙されてタップしてしまうことがあり、まずそもそも表示をさせてほしくないわけだ。
ソシャゲ系だとステージ間の自動動画広告とかもあるし、コンテニューやプレイ回数増加などプレイを補助する広告視聴とかもある。しかも都度ポップアップで出てくる。正直怖くてしょうがない。
なのでできれば子供向けIPでアプリを出すのであれば、アプリ内課金でもいいので広告表示を全カットとかのオプションを用意してほしい。
ウチは子ども用スマホはブラウザや検索などほぼ機能は切っていて、アプリも自由に入れられないようにはしているんだけど、そもそも子供向きでないアプリの動画広告を出して欲しくないが、年齢的に適していて要望があるゲームは遊ばせてあげたい。一つのゲームでも大人用と子ども用でうまく切り分けをしてくれると嬉しいと思う次第でありました。
あと補足だけど、これの難しいポイントとして、やっぱり有料アプリのみだけだとメーカーがなかなか利益を出しづらい・その市場が成長しないんだよね。かなり昔から子供向けアプリの相談は何件か受けたことがあって、世の中に必ず必要になるジャンルだけど、とにかく収益が上がりにくい、ってのを何度も指摘したことがある。
子供とCMにまつわる話として、子供だけによる直接の課金ができないという大前提があるのだけど、TVは子供向けの番組にバンバンおもちゃのCMを入れてくる。ただ、あれは一緒に見てる大人に子供がせがむ→判断して買うという流れがあるわけで、基本的に大人というフィルターを一度通さざるを得ないわけだ。なんとかアプリでもうまくその流れでCMを組み込めないかなとは思う。
あと、動画広告の審査とかザルだしクオリティも正直ダサいものが多いよね、TVCMに比べて。あれは単純に見た目がいい・見栄えがするものが課金につながるわけではないという数字的な実績の元に作成されているんだと思うけど、だとしてもダサいし、ゾーニングやターゲティングもぶっちゃけしょぼいよね。WEBの広告業界はもう少し頑張れやと思う。
このタイミングでアプリ紹介まとめ記事を書いた理由と、その理由を記事内でぼやかしたワケ
こんな記事を書きました。
時間があるときに遊び尽くしてほしいスマホゲーム大全集 |ミートアイ
簡単にいうとおすすめアプリまとめで、なんで書いたかというとコロナウイルス関連です。
新型コロナウイルスの拡大で、学校の休校や自宅待機が増える中、まぁおすすめのアプリを列挙しようというやつなのですが、自分のところで何でこれをやろうとしたかというとちょっとした経緯があります。
まず、ネットをよく見る方だとおわかりだと思うのですが、休校などに合わせて様々なコンテンツメーカーが自社のおすすめサービスの紹介や無料公開などを推進し始めましたよね。それはいい。
でも、その初期Twitterでちょっと違和感を感じたんですよ。ゲームメーカーが全然自社のゲームをおすすめしないんですよ、あくまで自分の感じた感じですが。ゲームがメインの会社であって関連おもちゃとか無料で公式サイトからDLできるものとか、そういうのしか紹介しない。
基本的にはそれぞれが無料で出来るコンテンツとかを紹介する流れだったからというのもありますが、他の映像系サービスとか割と普通に有料のサブスク系サービスとかでも自社サービスをコロナ合わせで紹介してるんですね。
漫画なんかも基本的には有料のものを期間限定で無料にして紹介、とかではあるんですが、それでも漫画なら○巻までは無料となれば続きは有料でという暗黙の了解での紹介というか、有料への動線があるわけじゃないですか。
ゲームメーカーが頑なにゲームの紹介をしなかった。(あくまで私の受けた感じです)
で、これは全部隅から隅まで調べたわけじゃないのですが、ここまでゲームメーカーが自社コンテンツを紹介しないというは、"しない"んじゃなくて"できないん"じゃないかなと、ひょっとしたら、ゲームというものがまだそういう存在なのかな、と思ってしまったわけです。
ゲームメーカー側の自主的な配慮の部分が大きいとは思うのですが、なんか学校を休んでいる子供にゲームなんて紹介するな的な、そこには荒れるから止めておこう的なネガティブなあれなんじゃないかなーと邪推してしまうのです。
ちなみにコロナ騒動開始からしばらくたった今、ゲームメーカーもセールという名目で色々と告知し始めているのも知っています。ただそれも、どんだけ見ても春休みセール、止まりなんですね。コロナを受けて〜とは言わない。
かねてからゲームというのはとかく子供に与えるコンテンツとして難癖をつけられやすいものでした。
やれ目が悪くなる、熱中しすぎると離れられなくなる、勉強しなくなる…etc、etc
でもそういうのって、漫画も映像作品も変わらなくない?
漫画だって長時間読み続けて抜け出られなくなることがあるだろうし、映像作品だって今や見放題のサービス使ってたらほぼ無限に見続けられちゃいますよ。ウチの子もそう。ずっとNetflix見てるわ。
自分は別にゲームだけが好きで他の漫画や映像作品が嫌いな人間ではないですよ。全部大好きです。漫画は昔は書店でコミック担当として売る人間としても読む人間としても相当関わっていましたし、今でも漫画はまぁまぁ買う方です。映像作品だって、役者をやっていたこともあり映画は相当見ましたし、今でもNetflix、Amazon Prime、dTV、dアニメストア…等複数サブスクに入って常に作品をチェック、視聴しています。
そして同様にゲームが大好きです。
そんな中で、あくまで自分の思い込みかもしれませんが、ゲームが、ゲームだけが、この非常時に子供楽しんで貰えるおすすめコンテンツとして声を上げることが出来ないというのが悔しくて悔しくてですね。
無料のコンテンツ紹介というのであれば、スマホゲームなんてすでに殆どが最初から無料なんですよ。じゃあ今、漫画や映像作品と同様に楽しんでもらってもいいじゃないですか。
なんでゲームだけがダメなの?
そう思ったら、せめて自分のサイトくらいならおすすめゲームのまとめを紹介したっていいんじゃないか、そう思って書いたわけです。
ただですね、実際に書くとなった時にこうも思ったわけです。
もし、本当にゲームメーカーが、本当はコロナ支援の名目でアプリやゲームを紹介したいけど、世の中の反発などを考えて我慢しているんなら、その努力を自分の記事で台無しにしてしまうこともあるんじゃないか、それは自分の望むところでは無いので自分が言ってしまっていいものかと。
こういうこと考え始めると明らかに堂々巡りになるので、早々に考えるのは諦めたのですが、その結果の苦肉の策というか、迷った挙げ句実際に書いた形が、あくまでコロナとは言わずしらを切る、ということでした。なので、なんか出だしの部分とかめちゃくちゃ具体的にぼやかして書いています。
今回のことはあくまで自分のゲーム好き人間としての被害妄想ならいいんだけどな、という感じです。本当は1日1時間、なんて厳密な数字で管理するんじゃなくて、宿題も運動も友達付き合いも親子の会話も適度に出来てれば、別に後の時間は好きなことを好きなようにやればいいんじゃないかなと言いたいです。
下剤を盛られました
健康診断に行ったんですよ。
今の会社になって初の外で受けるやつで、同じことするのに今までの会社だと健康診断って呼ばれてて、今の会社だと人間ドックって言われました。健保による違いなんですかね、それとも俺が個人事業主やってた間に世界が変わったの?よーわからんけど。統一してくれ。
まぁそこは納得が全然いかないけど、別にいいんですよ。
で、あれ受けるとあるじゃないですか。バリウム飲むやつ。
で、あれを飲むレベルのおっさん以上しか知らないと思いますけど、自分のブロク見てるような人はそんなに若い人いなくて知ってると思いますけど(失礼)、あれ終わると下剤もらうじゃないですか。バリウム出さにゃーならんとかで。
で、ですね。実は今まで数回検査受けて来ましたが、私下剤飲んだこと無かったんですよ。
ホントは飲まなきゃいかんというのはわかってるんですが、毎回ですね、ちょうど健康診断の後に外での打ち合わせとか、取材とか、なんか講演的なのとか、必ず予定が入っておりまして。しかも結構気を抜けないやつ。
で、そうすると、もしそん時に下剤が効きすぎてピーピーキャンディー的なことになったらヤバいじゃないですか。
なので、いつも下剤は用事が終わってから落ち着いたタイミングで飲もうと思ってたんですが、意外と毎回用事が終わるタイミングで普通に出たんですよ。
なので結果として飲む機会が無かったというか、飲む必要が無かったというか、そういう感じで来てしまっていたんですね。
しかしですよ、今回いざ検査の時になりましたら、バリウムを渡された時にこう言われれまして…
看護師さん「これバリウムと一緒に下剤が入ってるんで」
俺「…入ってる…?」
…それはアリなの?
…薬品的にそれはOKなの?そういう飲ませ方していいものなの?
とか思いつつ、自分としてはとにかくバリウムを飲んだあとに下剤を飲んだ事がないのでめちゃ不安になるわけですよ。
自分は今までが下剤飲まなくても普通に出てたわけで、ひょっとして下剤飲んだら通常以上にめっちゃ腹下すかもしれないじゃないですか。
これ拒否権ないの?と心配になりながら、まぁお医者さんたちの言うことですし、ほかもみんなここではそうやってるってことは、大丈夫なんだろうと、表面上めっちゃスムーズに「あーなるほどはいはい」と飲むわけですね。
そして、検査終了。帰り始めるわけですよ。
めっちゃお腹下ってきた。
もうね、帰る途中でバリバリにお腹下り始めまして。
帰り道最初にバス乗ったんですが、その中で割とピンチ。
まずバス降りてすぐ電車の駅でトイレに。
そして乗って降りたらその駅でトイレ。
歩いて乗り換えた駅でトイレ。
再度電車に乗って降りた駅でトイレ。
降りた駅前で買い物に寄ったスーパーで即トイレ。
トイレフィーバーですよ。
家に帰るまでに5回トイレ行くとは思わなかったわ。
やっぱあのシステム違うくない?
バリウムを体に貯めないための心遣いかもしれないけど、バリウム後の下剤は各ユーザーに委ねて欲しい。割とマジで。
俺とスマホサイトとテレビ局
さて、ずっと前から書こう書こうと思って忙しくて書けなかったんだけど、ちょっとした事故ですこし隙間時間ができたから書こうと思います。
私の今の仕事について。
もともとこのブログは、スマホ情報サイトであるミートアイが会社が潰れて個人で買い取った際に、完全に自分のものになったから自由だけど、サイト自体に求められるものを急に変えるのも何かアレだから、自分個人をメインとしたミートアイのサブというか外伝というか裏というか気軽なオマケみたいなイメージで始めたのでした。
んで、時は経ち、今の私の仕事はテレビ局なわけです。
2年間個人事業主として1人でこのサイトだけで生きてきたわけですが、今年の2月に就職しまして、今は普通に会社員なのです。
で、そこでですね、夏頃にこんなことがありました。
元アプリ情報サイトの運営者で今はアプリ開発者の某あぷまがさんにお会いした際に私は冗談めかして「ちょっとー、メディアだったのに今やすっかり開発者側になっちゃって裏切りですよーw」と言ったらですね。
「そっちこそ、そんなテレビ局なんて大手メディアにいっちゃって裏切りじゃんーww」って言われまして。
結構これが衝撃でして。自分としては鞍替えをしたつもりは全く無くてですね、ほんと単にお金が稼げなくなったので就職しただけだったんですよ。
ただ、たしかに外からみたら個人メディアからテレビ局ってめっちゃステップアップしてるようにも取れるなと。自分としてはそこは直列に無くて別物と考えていたので目から鱗だったんですね。
で、ただ、自分としては先程言ったとおり、鞍替えしたつもりは全く無くて、むしろ単に自分の持てる情報を倍にしたいと思ったんですよ。今までのアプリやスマホに関する情報を持つ自分、そしてそこにテレビの情報を持つ自分を加えたいと、倍にしたいとすんごくシンプルに思ったんですね。どっちも捨てる気は全くありません。
単純にそっちの方がええやろ、というバカみたいな思考回路なんですが、意外とそう思われてないぞ、と。就職した瞬間にそっちの/そこだけの人間になったと思われるんだ、と。ちょっとそれは自分としては弁明したいと思いまして。
というわけでしてね、自分は今でもバリバリにスマホメディアの人間のつもりです。申し訳ないことにアウトプットの量は人間与えられた時間の限りがあるため、落ちてしまっていますが、インプットは全く怠っていませんし、アウトプットが落ちたといっても今でも私は毎日ミートアイを更新し続けています。
じゃあテレビの仕事は手を抜いているかというとそれも全くありません。ホント、マジで。仕事中は全力バリバリでやっています。自分で言うのもなんですが、全く未経験でテレビ局に入って、自分ほど局内で必要とされる情報を出した人間はなかなかいないんじゃないかと思うくらいゴリゴリにやっております。あと、それもこれも元々の仕事のおかげでもあります。
なので、自分としてはどっちも諦めるつもりは全くない、というよりですね、両方を持っているからこそ双方の業界に新しい情報を提供できるようになるとすら思っていますし、必ずどこかに接点はあると思っています。すでに何かできそうな予感もしています。
ということで、皆さん今まで通りスマホメディアの人間として見ていただいて大丈夫です、それにお応えする環境は少しも緩んでおりません。
そして、新たに自分はテレビ局の人間という力も手にれました。どこまでその力を持ち続けて大きくできるかはわかりませんが、そちらも抜かり無くパワーアップさせて行きたいと思っております。
改めてよろしくお願いします。
映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」感想。俺は愛が欲しかった。【ネタバレあり】
さて、見てきましたよ、ドラクエ映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」
もうここまで来て、ネタバレなしで語るのは意味ないと思うので、ガンガン内容も触れまくって行きたいと思うので、そこらへん気になる方は、一旦回れ右してまた映画を見たら来てみてくれ!
まず全体的に感じたのは、そこに愛はなかった、よ。
少なくとも自分はこの作品の製作者、まぁ言われている通り監督が占める部分が多いのだろうけど、ドラクエ5に対して愛を持っているようには感じられなかった。
正直作りは上手いと思う。たぶん多くの作品を任されているということもあり、作るのは上手いんだと思う。でも愛はないよ。ただ上手いだけ、しかも表面上。
映画全体のまとめ方とかはぼやっと・ふんわりと・ふわっと・おぼろげに、見れば悪くないと思う。そう悪くないと"思うようにできている映画"だった。
ラストはおいておいて、そこまでの道のりも映画の尺にしっかりとドラクエ5の内容が入ってるし見せ場もある。主人公の心の成長や動きもつながってはいるし、見て取れる。最後に盛り上がりを持ってくるための流れがあるし、ちゃんと盛り上がる。
音楽も5以外から使ってるのはどうなのかって話がよく出てるけど、そこらへんはぶっちゃけファンしか劇場でみたタイミングで「これ6の曲じゃね?」みたいなのわからないと思うし、内容にあってればそれはそれ無しではないんじゃないかとも思えてくる。
推測でものを言っちゃって申し訳ないけど、そういう作りをするのが得意な人なんじゃないかな。器用貧乏というか、さっとまとめるのが上手い。
でもそれだけ。
だから、深く知ってる人や原作に愛を持ってる人が細かい点をみると不満がでてくる。
まぁとはいえ、なんと言ってもラストだよね。
あれ要る?要らないよね?
で、ここで考える。なんで入れたのか。作った人間はなんでアレが要ると考えたのか。
あれをわざわざ入れたってことは、それが一番言いたかったこと、なわけだよね。
「ゲームなんて虚構」
が、言いたい。
んでもって主人公が
「それでもその時の思いは嘘じゃない」的な事言う。
これが、この映画の主題。
要らん、要らんよ。そんなもん。ドラクエ5でやらんでくれ、勝手にオリジナルでやれよ。
だってドラクエ5という作品にはそもそももとから主題があるわけだよね。親子の物語というかなり濃密なやつが。その中で、主人公が勇者ではないという王道からはずれた驚きを生み、主人公の結婚という一大イベントを発生させ、それらがうまくリンクして一つの物語を紡ぎあげているわけだ。
その最大の魅力たる主題がある物語に、全然関係ない別の、監督の単なる自己主張的な、既存のファンの気持ちも考えず、しかも世界観はぶち壊すものを持ってきたらさ、そりゃ怒る人もでるし、何よりも薄くなるじゃん?薄っ薄のペラッペラやん?何を言っても説得力は無くなると思うんだよ。少なくとも自分にはまったくその主題が刺さって来なかった。
ドラクエを使って「ゲームは虚構」をやりたいなら、せめてドラクエの許可を得たオリジナルでやるべきだったと思う。しかもちゃんとそこが主題となる道筋を作って。
それでも炎上はしただろうけど、でもそれならまだやりたいこと言いたいことの理屈は通ってる。合う合わないはあるだろうし、それでもドラクエを使うなって意見はでるだろうけど。
5という既存の物語に無理やりくっつけたから破綻する、粗が出る、薄さが見える。作った人は無理やりくっつけたとすら思ってない気もするけど。
そんでもって、さらに言っちゃうと、その主題にドラクエが必要だったか、もかなり疑問になってくる。
こういう風に考えがいっちゃうと、もうドラクエをダシに使ったように見えてきてしまう。
で、ここまで来て、やっぱりドラクエへの愛は感じられない、となる。愛があったらこうはなってなかっただろう、となる。
原作への愛を感じないところに別の主題を持ってこられても、それも到底気持ちよく受け取れるものでは無い。簡単にいうと馬鹿にしてんのか?という気持ち。
では、原作があって愛を感じられる作品ってなんだろう?
ここからはあくまで個人的な思いだけど、そういう作品ってファンが見て「あぁ、そうだ自分たちは言語化や表現ができなかったけど、そういうことだよ。」とか「自分ですら気づかなかった作品への思いが一つの形として目の前に現れた」とかそんな感じなのよ。何よりもまず製作者の原作への愛が感じられるもの。で、それが今作にあったかというと無かった。
最初に言った通り作りはうまかったと思う。でもそれは表面上のもので、製作者の愛を感じられたかというとそれはなかった。今作を見た中でドラクエへの愛を感じられたの部分ってのは、映像がうまくまとめられたことで自分の中のドラクエ愛が顕在化させられたところ。作り手じゃない、それは俺の愛だ。俺たちがもともと持っているものだ。
それは見れば一瞬気持ちよくなる。自分の中の愛が目の前に現れたことで一瞬これはこれでアリなのか?みたいに思ってしまう感覚を出させられるけど、騙されてはいけない。本当に求めているものはそれじゃないよね。本来はまず映画製作者が強烈な原作愛を客にぶつけてくることで、客の持っていた愛が引き上げられ、ぶつかり合い、最高の空間が生まれる、それが原作アリのもののあるべき姿だと思うわけよ。今回のは俺側片方の愛が出てきただけ。
さらにいうと、上で5以外の楽曲を持ってきたのも無しでは無い、と言ったけど本来愛があればそれもドラクエ5から用意しない?普通。なんかそういうところも結局原作を知らないから・リスペクトが無いから雰囲気だけで適当に持ってきた様に雑に見えてくる。ちゃんと理由があって他から持ってきたことがわかるのであればいいけど、愛が感じられないから見えない。仮に理由があったとしても見えない。
原作への愛を言ってしまうと、じゃあ原作への愛が無い人は楽しめないじゃんと思うかもしれないけど、そんなことは無い。知らない人でもちゃんと愛を届けられれば、むしろ原作を見ようという気持ちを出させられるし、なによりもまずそこはプロなんだから見せ方のテクニックとしてみんなが楽しめる様にちゃんとやれという部分でもある。愛が邪魔になることは無い。それでも原作への愛がうっとおしくて受け入れがたい作品があった・あるよ、と言われたとしても、俺は「いやそれは本当の意味で愛が足りてないだけだよ」一蹴する。それだけ愛は大事なのだ。
あと、シンプルにラストの主題もうっとおしかった。
ゲームを好きでは無い人のゲームへの思い込みみたいなのを感じた。「ゲーム好きなやつってこんな感じなんやろ?」みたいに始まり、「いや、でもわかるよ〜。ゲーム面白いもんな!わかる〜俺も昔はやったもん!いいと思う!このご時世ゲームだって認められるべきものだと思う!な〜。お前はゲーム好きでええんやで」みたいな。
は?なんなん?お前誰…?ってなる。
何度も言うが、ラストは置いておいて、いやラストも含めて作りはうまかった。でも内容はペラペラだった。作りが上手いおかげで内容がペラく見えづらい気がしたけど、やっぱりペラかった。それを気づかせてくれるラストだった。ドラクエ5のウィキペディアと動画サイトに上げられている実況プレイを見て作りましたという作品。さらにそこになんかよく知らんゲームが好きでも無い人の勝手なゲーム好きへの説教と、それでもその説教をした相手にも好きになってもらおうとうする勝手な同調と厚かましさと浅ましさがくっついてくるという作品だった。
世の中の多くはこの作品を見てここまで考えずに、良かったと思うだろしそれでいいと思う。でもこういう自分たちみたいな人間はマスに対して少数であっても、たとえ原作ファンやゲーム好きではない一般のマスにこのブログみたいな文章や考えが届かないでも(むしろそのほうが自分もいいと思っている)、それでも人間どこかでつながっているもので、評判や評価という明確な形でなくても、気持ちというのは伝播するものだとも思う。
自分も見てすぐは、一瞬明確に悪く見えなかったけど、いざこの文を書き始めて気がついたらボロクソ言っていた。そんな作品だった。
ただ一つ、一つだけこの作品のパワーを挙げるとしたら、忙しくて時間も体力もなくて映画にも行けなかった自分がわざわざ映画館に観に行って、ずっと書けずにいたこのブログ記事を上げることができた、それだけのパワーは持っていた、自分としては凄まじい力だと思う。